私の古い名刺の中に、昔もらった取引先と後輩の名刺が出てきた。私のサラリーマン時代を思い、どういう形で後輩に接していたのかを考え、随分と無機質(不正確な言い回しと思う)な考え方をしていたと思う。翻って母はときどき「○○したんねんからなあ」と気強く言っていたのを思い出す。自分の気の強さを自覚していたのだろう。私が介護をしていたときにも何回かそれを口にしたことがある。歩行が不自由になる前には物を投げたりもしていた。でも、口ではそう言っても実際にそれ以上の事はできなかった。自分の老いで、昔のように強い行動には出れなかったのだろう。人間だから仕方ないと思う。どんなに口の強い人も皆、老いればそうなるんだろう。でも、その言ってはみたものの行動には出れない姿が懐かしく思い出される。会いたいなあ。
月: 2021年10月
【母を思う】なぜ、その一言が言えなかった
母がベッドで、「(死んでしまったら、)光司と別れるのが一番辛い」と言っていたのを思い出す。なぜそのとき「ほんまやなあ、僕も別れるのが辛いわ」の一言を言ってやれなかったのか? 常々、「早く死にたい、お父さんやお母さんに会いたい」と言っていたなかでのその言葉、それこそが母の本音だったに違いない。その気持ちに応えなかった、私は何て鈍感な不誠実な人間だろうと思う。お手伝いの斉藤のおばちゃんのときもそうだった。辞めると決まって、「別れるのがさびしい」と言ってくれたのに、私は「ふーん、そうなん。」位の態度しか示さなかった。母がおばちゃんへのあたりがきつくなり、私にこぼしたり、松美が「私がいるのが煙たいだろう」と言っていたのを思い出す。やめる理由を僕は知らなかったが、たぶん、これらのことがあったに違いない。
【母を思う】後期高齢者医療関係書在中という封書が届く。
死亡届けを役所に出したのに何だろう?と封を開けてみた。母の死亡に伴う介護保険料の調整と12月から徴収を停止する、との知らせだった。これで介護保険からはもう通知が来なくなると思う。他の保険や大阪府の被爆担当からも同様だろう。こうやって母宛ての手紙は役所や知人からは全く来なくなってしまう。これが 死んだ、という事何だろう。この世に存在しないことを公にされていくんだなあ、としみじみ思ってしまう。ダイレクトメール類だけになってしまうんだなあ。
瓦谷さんのコロッケ
瓦谷さんが、お母さんどうしてはる?と聞いてくれたので、「母は死んでん」と告げる。私の買い物の中にコロッケがないのに気づき、いつもコロッケを買っているのに、今日はなぜないのかと不思議に思ってくれたそうだ。知らなくてすみませんと謝ってくれた。ショックだとも言ってくれた。いい人だ。
「網元」からの案内
「網元」から誕生日のメニューの案内が来た。来年の4月まで使えますとある。以前は誕生日の1カ月前位に送ってきていたのが、何と半年近くも前だ。不景気なのかな? 美味しそうな料理が載っている。おかあちゃんに食べさせて上げたら喜んだだろうな。値段が高いのでちょっと敬遠していたけれど、もともと母が貯めた金だ。なんで、もっと母の為に使わなかったのだろう。また自分のあほさ加減に腹が立ち、母に申し訳なく、泣いてしまう。