以前読んだ本で、日本の社会はこまごまとした仕事を担ってくれている人で成り立っている。もっとそれに報いなくてはならない、という事が書いてあって、印象に残った。私の生活も実にこまごまとした用事が沢山ある。柱となる仕事ばかりについ目が行きがちだが、それを片付けるのが同じように大切だと思う。こまごまとした仕事は緊急性にかけるので、先延ばしにしてしまいがちだが、心の中にゴミのようにたまってしまい、もしやり忘れて失敗すると、大きな後悔の元にもなる。先日「to do list」の中で優先度順のグループを作ったが、必ずpcに登録をしておき、片付けていかないとダメだ。常に優先度をチェックして、今日はこれに取り組もうと、ひとつづつ減らしていかないといけない。
カテゴリー: 日常生活
日常生活でいろいろ感じた事をのべる
片付け。ひょっとしたらうまく行くかもしれない。
先日、新しくtodoリストを以下の項目に分けて作り、日記の一番上の部分に配置した。
- その日の最優先事項
- 毎日必要なこと
- 当面すぐにしないとダメな事
- これからやらないといけないこと
- 残っている用事
ただ単に項目を並べるより、優先事項がわかってとても良い。日記の最上部にくるのもよい。思いついたことは残っている用事に書き加えて、日によって優先度を変える。メモに書くのもよかったが、メモがくしゃくしゃになってきて、残り少なくなるのに持ち歩かないとだめなのが難点だった。
することが多いので、しないまま埋もれてしまうことも多かったが、この方法で、旅行業の申請書類を今朝ほぼ完成し、今確定申告の領収書の登録を行って少しずつだが進んでいて、ひとつひとつ片付けることの利点を感じられる。
整理
片付けを心掛けても片付かない
どうしてもしなければならない事務作業
生活していくなかで、身繕いや食事などを除き、すべての勉強は一旦棚上げして
片付けに専念しようと決意
母の3回忌
【母の三回忌】今回の一番大事は母のお骨をお墓に入れること。和子にさらしの袋をもってもらい、母のお骨をそちらに移す。さらしの布のすきまから和子の膝に骨片がこぼれ落ちる。袋についていた紐で縛れるのかと思ったがそうではなかたので、折りたたむ。さらしの表面に3つくらいボールペンで母の名前を日付を書く。健に手伝ってもらい墓石を動かし母の骨をそのすきまから一番手前に入れる。こんな暗いところにさみしいだろうなと思った。何枚か写真をとる。見慣れた田んぼを背景に墓石の写真をとると、懐かしいような、寂しい気持ちになる。しかし、自分の生まれ育った、場所にお父さんやお母さんと一緒に眠ることができた。一応母の望み通りのことはできた。
母の買った大きなゼムピン
母が昔、大きなゼムピンを一箱買ってきていた。私は小さなゼムピンを使っていたので、こんなゼムピンをどうするんだろう?と思っていた。母は何かまとめておきたいものがあるといつもそのゼムピンを使っていた。私は紙の厚さや用途に応じて色々と変えていたが、母はもっぱらそれ一本だった。今、新しい授業の資料をまとめるのに、その母の大きなゼムピンを使わせてもらっている。母は私のように色々と変えることはしないで、色んなものは買わず、それ一筋の人だったなあと思いだす。ゼムピンだけでなく、注意書きをするには赤のサインペンなどと決めていた。そんな人だったなあと懐かしく思い出す。
母を思う 経営者の秘訣
【母を思う】 本日の株取引 の 通知書 を 夜の10時すぎに 印書を始めた。 以前はやっていなかったが、 大部整理の状況も進めて、 毎日その都度行うようにした。 結構大変だなと思う。 母が商売をしていた時、 経営者の秘訣として、 お客さんから、 付けがどれくらい貯まっているか と聞かれたときに、 その場で さっと答えることができると、 非常に信用を 売ることができると言っていた。 こうやって作業していると その母の言葉を思い出す。 律子さんが、 母は偉大な人だ といっていたが、 そういったことを 黙々とやっていた かあちゃんを思い出すと、 また懐かしさが込み上げてくる。 もっとあの時のこと 色々と聞いておけばよかったなあと 改めて 思う。
新年の買い物
新年の買い物で高島屋に寄る。コロナ禍なのにお客さんは多く、美味しそうなものを売っている。母に食べさせてあげたら喜んだろうに、と思う。母のおかげで不自由なく暮らせている私の家族を思うと、本当に申し訳なく思い、又デパ地下を歩きながら涙が出てくる。
母を思う 名刺の整理
私の古い名刺の中に、昔もらった取引先と後輩の名刺が出てきた。私のサラリーマン時代を思い、どういう形で後輩に接していたのかを考え、随分と無機質(不正確な言い回しと思う)な考え方をしていたと思う。翻って母はときどき「○○したんねんからなあ」と気強く言っていたのを思い出す。自分の気の強さを自覚していたのだろう。私が介護をしていたときにも何回かそれを口にしたことがある。歩行が不自由になる前には物を投げたりもしていた。でも、口ではそう言っても実際にそれ以上の事はできなかった。自分の老いで、昔のように強い行動には出れなかったのだろう。人間だから仕方ないと思う。どんなに口の強い人も皆、老いればそうなるんだろう。でも、その言ってはみたものの行動には出れない姿が懐かしく思い出される。会いたいなあ。
【母を思う】なぜ、その一言が言えなかった
母がベッドで、「(死んでしまったら、)光司と別れるのが一番辛い」と言っていたのを思い出す。なぜそのとき「ほんまやなあ、僕も別れるのが辛いわ」の一言を言ってやれなかったのか? 常々、「早く死にたい、お父さんやお母さんに会いたい」と言っていたなかでのその言葉、それこそが母の本音だったに違いない。その気持ちに応えなかった、私は何て鈍感な不誠実な人間だろうと思う。お手伝いの斉藤のおばちゃんのときもそうだった。辞めると決まって、「別れるのがさびしい」と言ってくれたのに、私は「ふーん、そうなん。」位の態度しか示さなかった。母がおばちゃんへのあたりがきつくなり、私にこぼしたり、松美が「私がいるのが煙たいだろう」と言っていたのを思い出す。やめる理由を僕は知らなかったが、たぶん、これらのことがあったに違いない。
【母を思う】後期高齢者医療関係書在中という封書が届く。
死亡届けを役所に出したのに何だろう?と封を開けてみた。母の死亡に伴う介護保険料の調整と12月から徴収を停止する、との知らせだった。これで介護保険からはもう通知が来なくなると思う。他の保険や大阪府の被爆担当からも同様だろう。こうやって母宛ての手紙は役所や知人からは全く来なくなってしまう。これが 死んだ、という事何だろう。この世に存在しないことを公にされていくんだなあ、としみじみ思ってしまう。ダイレクトメール類だけになってしまうんだなあ。